全ての判断はおもしろい物の見方3=アクセスコンシャスネスのおもしろい物の見方=

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 「判断」「判断中止」「おもしろい物の見方」について、哲学と比較しながら自分が掘り下げたい部分をドドドと掘り下げていく2回目。前回のインド哲学編はこちらから。

 

 難しい!と言われたりもしますが、私、こういうの、好きなんですよねー。

 思想史は、物事の成り立ちや、今は当たり前だと思っているものが実はそうではないってことがわかったりするので、とってもおもしろいです。自分の常識を疑うのって、最高の娯楽♫ というわけで、おさらいからいきますね。

 

 

判断中止が目指したもの

 

 西洋で「エポケー=判断中止」に基づいた「不可知論」の思想を打ち立てた、古代ギリシャの哲学者ピュロン(B.C.360年頃~B.C.270年頃)。その(推定)約1世紀ほど前の東洋では、B.C.5C.前後のインドで、サンジャヤ・ベーラッティプッタが不可知論を唱え、ブッダの明言を避けるパフォーマンスによる判断中止の思想がありました。

 

 彼らは同じことを提唱していたわけではありませんが、共通点があります。

 

 ひとつは、当時のそれぞれの場所で論議されてた、形而上学(現象界の奥にある、世界の根本原理を探究する学問)の論争に対する新たな視点を提示していたこと。経験していないこと、この世界には実在していない神や死後の世界のことなどを話していても仕方ないと明言化していたんですね。

 

 次に、「物事を認識する主体によって真実は異なる」と定義していること。

 ピュロンは「事物の本性を知ることができない」とし、知覚・認識する個人によって物事はどのようにも捉えることができるという考えを持っていました。

 ブッダはそれに加えて諸行無常「非我」の思想を持っていました。これは、すべての物質は移り変わっていて「我」も同じように変化しているため、判断主体である「我」自身も普遍的ではないという考え方です。この「非我」の思想は後に「無我」の思想へと発展していきました。判断する対象も判断する主体も変化しているという、判断中止のWパンチ。ここから、全ての存在は変化し続けていて普遍的なものはひとつもないという無常の世界観が繰り広げられていきます。

 

 そして最後に、ピュロンブッダ判断中止に希望を見出していたという重要な共通点がありました。

 ピュロンは「何が真で何が偽であるかとか、何が善で何が悪であるかと思い悩むことがない「乱されない心」=「アタラクシア」に至ると考え、ブッダ「苦しみの消滅」「悟り」を説いています。

 

 こうして古代のギリシャとインドで、判断をしないことで心安らかな境地に至るという思想が生み出され、現在に至るまで世界のいろんなところで影響を与えているんですね。

 

 長い長い2500年の旅でしたね(笑)。では現代に戻って、A.D.1991年に生まれたアクセスコンシャスネスではどうなんでしょうか?

 

 

アクセスコンシャスネス・ジャッジメントのない世界へ

 

 アクセスでは覚醒した意識の状態・コンシャスネスについて、こんな風に説明しています。

全てを含み、何もジャッジしていない状態

  これは、あらゆるものを拒絶することなく許容し、何に対してもジャッジ・判断をしていないということ。ムムム、なんだか難しそう。

 

 でも、実はね、これになるのに、すっごく簡単な方法があるんですよ。

 それは「全てはおもしろい物の見方」という捉え方を持つこと。

 これが、自分の中にある固定概念から判断しないために必要不可欠な役割を果たしてくれる魔法の言葉なんですねー。

 

 試しに言ってみてください。

「それはおもしろい物の見方だね」

「そうなんだ! あなたっておもしろいね!」

どうです? なんだか楽しい気分になってきませんか?

 

 すっごい腹立つことでも、意見が違うことでも、大笑いしながらこう言っていると、結構気が済んじゃったりするんですよね(笑)。近頃私は、びっくりするようなことが起こった時、大笑いしながら「おもしろいねー!!」って叫んじゃう癖がついてきました。まあ、時には憤慨して怒りまくってますけどね😅何事も練習練習♫筋トレと同じです。

 

 深刻に正しいか正しくないかを考えていると眉間にシワがよって肩が縮こまってきますが、「違うっておもしろい!」に切り替えてしまうと、世界は違うものに見えてくるからおもしろい。

 

 ちょうどいい例があったので紹介させてください。

 イギリスの小学校でお弁当が醤油くさいといじめを受けた日本人の生徒の親が担任の先生に相談すると、先生はいじめていた子にこう言ったそうです。

 

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漫画はこちらに掲載されています。「英国人の子が、醤油の匂いを嫌う権利」はあるか〜cdb、青識亜論両氏の議論を軸に - Togetter

元ネタはこちら

https://note.mu/brusselssprout/n/n89504266013ahttps://togetter.com/li/1340430

 

 

そうそう。これだよ、これ。🤗

 

 私達は、知らないもの、思いつかないこと、馴染みのないことを「間違っている」とか「嫌い」と判断しがちです。でも、本当にそれはそうなのかな? 

 ちょっと自分と違うだけ、ちょっと周りと違うだけで、絶対的に間違っているとか、おかしいってものは、ないんじゃないかな? 大層に思っていたことでも、ちょっと見方を変えるとどおってことなかったり、するんですよねー。

 

 そもそも社会常識というのは、多数派が良いと言ったことがそうなっているものです。これは身近なところでも起きていて、一人でも多くの人がいいと言ったり、声の大きな人がいいと言ったことがそのグループの常識になっているだけ。絶対的に正しいものなんて、本当はないんですよね。

 

 私達は一人一人が、もともと違うのです。だからその上で、「違いを楽しむゆとり」「自分が選ぶ意思」があれば、何かを否定することもないし、みんな自由でハッピーになれるはず。

 

 判断中止とか修行とかって思っていると、ついついできない自分にイライラしたり、ダメ出しをしたりしちゃうものですが、

 あの人がこんなことやっちゃうのも、おもしろい物の見方だから。

 私がそれを怒っちゃうのも、おもしろい物の見方だから。

 みんなの意見が違うのも、みんながおもしろい物の見方だから。

そんなふうに考えていくと、自然と体が緩んできて、心が楽になってきます。

 

 「全てはおもしろい物の見方」「判断中止」をとても楽に実践していく方法!と私は思ってるんですよ。

 

 2500年の哲学の歴史をお手軽に実証するチャンスですねー(笑)。

 ぜひ一度、騙されたと思ってやてみてください☺️