全ての判断はおもしろい物の見方1=古代ギリシャのエポケー=

f:id:futuretrippers:20190815210910j:plain

Wikipediaよりピュロンが描かれた絵画

 

 私達は常に判断しながら生きている。

 そして判断している主体を自分だと思っている。

 でも、それは本当に本当だろうか?

 

 アクセスコンシャスネスにはジャッジメント」と「おもしろいポイントオブビュー」という言葉があって、「好き嫌いや善悪の判断は、ひとつの面白い物の見方にすぎない」と捉えています。

 私は結構長い間、頭の8割を自己探求と社会貢献が占める生活をしていたので、いろんな考え方を比較するのが好き。アクセスも探求のひとつの道具だと思っています。今回は「判断」「判断中止」「おもしろい物の見方」について、哲学と比較しながら自分が掘り下げたい部分をドドドと掘り下げてみようと思います。

 

 まず最初に、「判断中止」って言葉、ご存知ですか? 西洋でも東洋でもこの概念があるんですよね。

 

 

古代ギリシャで生まれたエポケーの思想

 

 西洋での「判断中止」は、古代ギリシャの哲学者ピュロン(B.C.360年頃~B.C.270年頃)が生み出したと言われていています。ピュロンが書き残したものはないそうなんですが、彼の考えを受け継いだ弟子ティモン(B.C.325〜B.C.235頃)は師の思想をこう伝えています。

 われわれは事物の本質を知ることができない。
 なぜなら、人間の知覚が捉えられるものは事物の現れにすぎず、事物のありのままの姿ではないからである。
 また、事物の本質は理性によって捉えることができるという人もいるが、理性による認識は習慣に縛られており、あまり信じることはできない。
 つまり、人間は、事物のありのままの姿を知ることはできない。
 それゆえ、われわれが事物に対してとるべき態度は、判断中止=「エポケー」しかない。
 そして、こうした「エポケー」の態度をとる者が得られるのは、何が真で何が偽であるかとか、何が善で何が悪であるかと思い悩むことがない「乱されない心」=「アタラクシア」なのである。

出典:懐疑派(Skepticism) | 西洋哲学史と倫理学のキホン

  我々は、事物が我々にどのように現れてくるかを知っているだけなので、事物の本性がいかなるものかについては知ることがない。あるものが真理であるかどうかを知ることはできない。したがって、判断をすべてやめれば心の平安が保たれると説いているんですね。エポケー( epokhē:ギリシャ語)はその後も哲学用語として使用されています。

 このようなピュロンの思想は「懐疑論」と名付けられ、事物の本性を知ることができないことを表していることから「不可知論」とも呼ばれています。

 

 この思想はアイネシデモス(B.C.1C.頃)に引き継がれました。彼は『ピュロン語録』の中で「10箇条のトロポイ」を示し、我々の感覚や知識は次の諸条件によって異なり、決して唯一絶対ではないと記しました。

  1. われわれ動物の種類が異なるに従って。
  2. 人間の個人個人が異なるに従って
  3. 同一の個人においても、感覚器官が異なるに従って
  4. これらが同一でも、その時々の身心状態によって。
  5. 知覚する者の視角や距離によって。
  6. 知覚される物を包んでいる物質や状況によって。
  7. 知覚される物の数や量によって。
  8. その物の他との関係によって。
  9. 知覚者の習慣によって。
  10. 対象の風俗習慣法律によって。  出典:アイネシデモス - Wikipedia

 これは具体的でイメージしやすいですね。感じ方は確かに人それぞれですし、同じ人でもその時々で捉え方は違いますもんね。

 

 こういった懐疑論者の思想はその後も引き継がれ、プラトンが創設したアカデメイア(B.C.387〜A.D.529)ではB.C.3C.〜2C.に大きな勢力を持ち、中世のキリスト教哲学者アウグスティヌス(354〜430)、デカルト(1596~1650)の方法的懐疑、フッサール(1859〜1938)の現象学的エポケーにも影響を与えています。

 

 近代哲学で「現象学」を確立したフッサールの主張はエポケー=判断中止に基づいています。フッサールの主張を要約するとこんな感じです。

 私たちは、自然(世界)とはこのようなものからできていると、ある種の思いこみによって認識している。しかし、これを改めて、世界という現象そのものを認識する必要がある。そのためには判断停止することが重要で、判断停止することで人は、世界という現象そのものを考察することができる。

参考:フッサールの哲学(高校倫理で最もわかりにくい思想) - Irohabook

 

 こう振り返ると、いつの時代も、「私が認識している世界は実在するのかはわからないし、それを限定することはできない」という思想が息づいてきたことがよくわかりますね。

 

 このように西洋の哲学史を振り返ると、古代ギリシャから近代に至るまでにいろんな人たちが「判断中止」について論じ、学問として体系づけてきた訳ですが、実はこの思想のルーツは古代インドにあったようなんですよ。

 

ー続くー

futuretrippers.hatenablog.com

 

 

その他の参考リンク

フッサール『現象学の理念』を解読する | Philosophy Guides

ピュロン - Wikipedia

ピュロンとは (ピュロンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

エポケー(判断中止)|フッサール,現象額的エポケー - Hitopedia

ピュロンとは - コトバンク

エポケーとは - コトバンク

簡単に読めるものですが、つなぎ合わせながら読んでいくとしっかり意味が出てくる。