あなたが幸せを選んでも地球は回る〜映画「天気の子」〜

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 マヤ新年をまたぐこの3日間、時間を外した日を挟んで大晦日と元旦に同じ映画を観に行った。今までどんなに感動した映画だって2回映画館に行ったことなんてなかったので、自分でもびっくり。あんなに感動したボヘミアンラプソディーでも1回だけでだったのに。不思議。

 

 その映画は「天気の子」。「君の名は。」の新海誠監督の3年ぶりの新作。

 特に楽しみに待っていたわけでもないんだけど、2日とも自然に体が動いたような感じだった。2回観た後に出てきた感想は「懐かしい感じ」だった。

 

 私は何を知りたかったのだろう? そう問いかけると、

 

誰も犠牲にしなくていい。

自分の心に正直に生きればいい。

勇気は優しさや幸せのために使えばいい。

そんなふうに

世界は回っていけばいい。

 

 そんな言葉がやってきた。

 

 (この先はネタバレ有りなので、映画を先に見たい人はまた後で)

 

 美しさの中に織り込まれた歪み

 

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<ストーリー>

 映画の舞台は2021年の東京。主人公は島に暮らす16歳の帆高。彼は雨が降り続く夏に、フェリーに乗って東京に向かう。家出少年の帆高はネットカフェに寝泊まりしながら仕事を探すが見つからず、フェリーの中で出会った須賀のところに転がり込む。須賀の編集プロダクションで「晴れ女」の取材をしながら東京の暮らしが始まるが、ふとしたきっかけで、小学生の弟と2人で暮らす少女・陽菜と出会い、次第に東京の息苦しさから解放されていく。そして、陽菜のもつ「100%の晴れ女」の力を使ってお天気で仕事をすることを提案して仕事は大成功するのだが、陽菜の身体には徐々に変化が生まれてきて…。

 

 この映画には、いくつものメッセージが織り込まれていると、私は感じている。

  

 「君の名は。」同様に繊細な風景描写が美しく、東京の風景が見事に再現されていた。そして、踊るように跳ねていく雨の映像。雲の動きと光の変化。風の音が聞こえてきそうな木々の揺らぎなど、期待を裏切らない映像美の世界が広がっていた。

 しかし、美しいと同時に、帆高の「東京ってこえ〜」というセリフが現すような、独特の生きにくい社会も風景として描かれている。ネットカフェ難民、風俗店のスカウト、事件、児童施設…。帆高の家出や陽菜達きょうだいが2人で暮らしている理由など、その人達がなぜそうなっているのかは全く描かれていないが、それがまた、他人の事情に深入りしない東京らしくもある。

 帆高は東京に来たばかりの頃、いく場所もなく、知っている人もなく、バイトも見つからず、野宿を決め込む状態。そんな彼を救ってくれた須賀や陽菜達との出会いから、彼は変わり、息苦しさがなくなっていく。それは、人は人と関わって初めて「居場所」ができ、呼吸ができるようになり、安心して生きられるようになると表現しているようだ。 そして、物語の本題は、天気を治療する力を持つ陽菜の「100%の晴れ女」を軸に展開していく。

 

 日本には昔、破滅的な自然現象が起きた時に誰かを神に捧げて危機を回避するという「人柱」の風習があった。それが、陽菜の「100%の晴れ女」にも関係し、陽菜は空へと送られてしまう。誰もいない雲の上の美しい世界に。すると、大雨だった東京はすっきりと晴れ上がり、突然暑い夏の日がやってくる。ようやくの晴れ間に喜ぶ人達。しかし、帆高はじっとしていられない。

「みんな、何も知らないで」

 この晴れ間の裏には確かに陽菜という人柱があり、人々の喜びは陽菜の「犠牲」の上に生まれたものだった。しかし、恩恵を受けている人たちは彼女の存在すら知らない。そして帆高は、彼女と一緒にいる喜びを失ってしまう。一体どうすればよいのだろう?

 

 

犠牲が浮かばれない現代社

 

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 ここには、日本で育まれてきた「犠牲」と「我慢」の文化を強く感じる。 

・誰か1人が犠牲になってたくさんの人が助かるならそうすべき。 

・他の人に迷惑をかけるなら我慢するべき。 

 これは利他主義の美しい文化かもしれない。しかしそれと同時に、不平等極まりない文化でもあるだろう。

 

 そして、「自己責任」が象徴する合理的で成果主義的な価値観と、「空気を読む」が象徴する無言の圧力と強迫観念。

 

 多くの場合、犠牲を選んだ者によって助けられた人達は、その犠牲の存在も、そんなことがあったことすらも知らずに過ごしていく。そして、仮に、彼ら彼女らにその力があったとしても、自分ならやらないと思う人が少なくないのが現代社会だろう。それは、自分を犠牲にするほどの他人との親しさや共有が極端に少なくなってきたことが原因だと思う。人と人の関わりが希薄になっているためにお互いを知る機会が少なく、身近で困っている人がいても、何を困っているかが想像できない。だから手を差し伸べることを思いつけない。それが現代都市の群像だと思う。そしてそれは、都市の支配を受ける田舎にもじりじりと広がっている。 犠牲は「空気を読む」ことによって誰かに強いられ、その人が犠牲を選んだ後は「自己責任」で片付けられる。そんな社会の中では、そんなことも少なくはないのではないか。しかしこれでは、みんなのために犠牲になる人が全く浮かばれない。

 

そんな社会に「自分を犠牲にしても守りたいみんな」はいるだろうか?

・そんなみんなのために、陽菜は犠牲になる必要があるのだろうか? 

・そして、帆高は陽菜を失う必要があるのだろうか?

 

画面からそんな問いかけが投げかけられていた。

 

 

幸せを選択すること

 

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 クライマックス、大人の事情や社会の決まりを振り切って、帆高は陽菜を迎えにいく。そしてその後、帆高は島に帰るのだが、陽菜が地上に戻って以来雨は降り続き、東京はすっかり姿を変えてしまう。帆高はずっと考えつづけていた。それは、陽菜を犠牲にすることではなく取り戻すことを選んだ自分に対する自責の念だろう。

 3年後に再び上京した帆高に、須賀はこう投げかける。

「お前達が世界を変えたわけじゃない」

「どうせ世界は狂ってるんだ」 

それでも帆高は

「あの時僕たちは世界を変えたんだ」

という思いを抱きながら陽菜に会いにいく。

この時の彼の言葉には迷いはない。

「世界を変えても好きな人と一緒にいることを選んだ」

という強い意思が現れていた。

 

 このクライマックスに、私はこんなメッセージを感じた。

 

 狂っている世界のために、誰も犠牲になるべきではない。

 ひとりひとりが幸せになることを選べばいい。

 

そのためには、日本人の無意識に刷り込まれた概念をぶち壊していくことが必要だろう。

 

 新海監督は、この映画でオリンピックの前の東京の姿を残しておきたかったと話していた。そして物語には東京の街がそのままの姿で描かれていて、最後には、多くの地域が水に沈んだ東京の姿が映し出されている。オリンピックの後に、こんな狂った世界が現れている可能性だって、全くないわけではないだろう。水没しなくても、荒廃した街が広がっている可能性だってある。その世界を変えることはできるのだろうか?

 答えはYES。この映画はその意識転換のきっかけを生み出す可能性を秘めていると感じている。

 

 世界が美しく、幸せであるように、祈っていこう。 

 誰も犠牲にすることなく、ひとりひとりが幸せに包まれたまま暮らせるように。

 自分と世界を幸せにする選択ができるように。

 

映画『天気の子』公式サイト

音楽は引き続きRADWIMPS

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#天気の子 #新海誠