全ての判断はおもしろい物の見方3=アクセスコンシャスネスのおもしろい物の見方=
「判断」「判断中止」と「おもしろい物の見方」について、哲学と比較しながら自分が掘り下げたい部分をドドドと掘り下げていく2回目。前回のインド哲学編はこちらから。
難しい!と言われたりもしますが、私、こういうの、好きなんですよねー。
思想史は、物事の成り立ちや、今は当たり前だと思っているものが実はそうではないってことがわかったりするので、とってもおもしろいです。自分の常識を疑うのって、最高の娯楽♫ というわけで、おさらいからいきますね。
判断中止が目指したもの
西洋で「エポケー=判断中止」に基づいた「不可知論」の思想を打ち立てた、古代ギリシャの哲学者ピュロン(B.C.360年頃~B.C.270年頃)。その(推定)約1世紀ほど前の東洋では、B.C.5C.前後のインドで、サンジャヤ・ベーラッティプッタが不可知論を唱え、ブッダの明言を避けるパフォーマンスによる判断中止の思想がありました。
彼らは同じことを提唱していたわけではありませんが、共通点があります。
ひとつは、当時のそれぞれの場所で論議されてた、形而上学(現象界の奥にある、世界の根本原理を探究する学問)の論争に対する新たな視点を提示していたこと。経験していないこと、この世界には実在していない神や死後の世界のことなどを話していても仕方ないと明言化していたんですね。
次に、「物事を認識する主体によって真実は異なる」と定義していること。
ピュロンは「事物の本性を知ることができない」とし、知覚・認識する個人によって物事はどのようにも捉えることができるという考えを持っていました。
ブッダはそれに加えて「諸行無常」や「非我」の思想を持っていました。これは、すべての物質は移り変わっていて「我」も同じように変化しているため、判断主体である「我」自身も普遍的ではないという考え方です。この「非我」の思想は後に「無我」の思想へと発展していきました。判断する対象も判断する主体も変化しているという、判断中止のWパンチ。ここから、全ての存在は変化し続けていて普遍的なものはひとつもないという無常の世界観が繰り広げられていきます。
そして最後に、ピュロンとブッダは判断中止に希望を見出していたという重要な共通点がありました。
ピュロンは「何が真で何が偽であるかとか、何が善で何が悪であるかと思い悩むことがない「乱されない心」=「アタラクシア」に至ると考え、ブッダは「苦しみの消滅」と「悟り」を説いています。
こうして古代のギリシャとインドで、判断をしないことで心安らかな境地に至るという思想が生み出され、現在に至るまで世界のいろんなところで影響を与えているんですね。
長い長い2500年の旅でしたね(笑)。では現代に戻って、A.D.1991年に生まれたアクセスコンシャスネスではどうなんでしょうか?
アクセスコンシャスネス・ジャッジメントのない世界へ
アクセスでは覚醒した意識の状態・コンシャスネスについて、こんな風に説明しています。
全てを含み、何もジャッジしていない状態
これは、あらゆるものを拒絶することなく許容し、何に対してもジャッジ・判断をしていないということ。ムムム、なんだか難しそう。
でも、実はね、これになるのに、すっごく簡単な方法があるんですよ。
それは「全てはおもしろい物の見方」という捉え方を持つこと。
これが、自分の中にある固定概念から判断しないために必要不可欠な役割を果たしてくれる魔法の言葉なんですねー。
試しに言ってみてください。
「それはおもしろい物の見方だね」
「そうなんだ! あなたっておもしろいね!」
どうです? なんだか楽しい気分になってきませんか?
すっごい腹立つことでも、意見が違うことでも、大笑いしながらこう言っていると、結構気が済んじゃったりするんですよね(笑)。近頃私は、びっくりするようなことが起こった時、大笑いしながら「おもしろいねー!!」って叫んじゃう癖がついてきました。まあ、時には憤慨して怒りまくってますけどね😅何事も練習練習♫筋トレと同じです。
深刻に正しいか正しくないかを考えていると眉間にシワがよって肩が縮こまってきますが、「違うっておもしろい!」に切り替えてしまうと、世界は違うものに見えてくるからおもしろい。
ちょうどいい例があったので紹介させてください。
イギリスの小学校でお弁当が醤油くさいといじめを受けた日本人の生徒の親が担任の先生に相談すると、先生はいじめていた子にこう言ったそうです。
漫画はこちらに掲載されています。「英国人の子が、醤油の匂いを嫌う権利」はあるか〜cdb、青識亜論両氏の議論を軸に - Togetter
元ネタはこちら
https://note.mu/brusselssprout/n/n89504266013ahttps://togetter.com/li/1340430
そうそう。これだよ、これ。🤗
私達は、知らないもの、思いつかないこと、馴染みのないことを「間違っている」とか「嫌い」と判断しがちです。でも、本当にそれはそうなのかな?
ちょっと自分と違うだけ、ちょっと周りと違うだけで、絶対的に間違っているとか、おかしいってものは、ないんじゃないかな? 大層に思っていたことでも、ちょっと見方を変えるとどおってことなかったり、するんですよねー。
そもそも社会常識というのは、多数派が良いと言ったことがそうなっているものです。これは身近なところでも起きていて、一人でも多くの人がいいと言ったり、声の大きな人がいいと言ったことがそのグループの常識になっているだけ。絶対的に正しいものなんて、本当はないんですよね。
私達は一人一人が、もともと違うのです。だからその上で、「違いを楽しむゆとり」と「自分が選ぶ意思」があれば、何かを否定することもないし、みんな自由でハッピーになれるはず。
判断中止とか修行とかって思っていると、ついついできない自分にイライラしたり、ダメ出しをしたりしちゃうものですが、
あの人がこんなことやっちゃうのも、おもしろい物の見方だから。
私がそれを怒っちゃうのも、おもしろい物の見方だから。
みんなの意見が違うのも、みんながおもしろい物の見方だから。
そんなふうに考えていくと、自然と体が緩んできて、心が楽になってきます。
「全てはおもしろい物の見方」は「判断中止」をとても楽に実践していく方法!と私は思ってるんですよ。
2500年の哲学の歴史をお手軽に実証するチャンスですねー(笑)。
ぜひ一度、騙されたと思ってやてみてください☺️
全ての判断はおもしろい物の見方2=古代インドの判断中止=
「判断」「判断中止」と「おもしろい物の見方」について、哲学と比較しながら自分が掘り下げたい部分をドドドと掘り下げていく2回目。前回の西洋哲学編はこちらから。
アレクサンドロス時代のインド
西洋で「エポケー=判断中止」に基づいた「不可知論」の思想を打ち立てたのは、古代ギリシャの哲学者ピュロン(B.C.360年頃~B.C.270年頃)。
当時のヨーロッパは、マケドニアのアレクサンドロス3世(大王)(B.C.356〜323)が勢力を伸ばし、広大な帝国を築いていた時代でした。ピュロンはこのアレクサンドロス3世の東征に随い、インドではヨーガ行者たち、ペルシャではマギ(メディア王国で宗教儀礼をつかさどっていた祭司階級の呼称)たちに学んだと言われています。
当時のインドは、都市国家が乱立している状態で、アレクサンドロス3世が制圧したインダス川沿いにもいくつかの国がありました。アレクサンドロス3世の死後、マケドニアは分裂しましたが、その頃インドでは初の統一国家、マウリヤ朝マガダ国が誕生したといいます。一方、現在のインドにつながる思想や文化、階級制度はもっと以前からあり、B.C.1200年頃から編纂され始めたヴェーダや、バラモン(司祭)をトップとする厳格な身分制度が大きな影響を与えています。
B.C.5C.になると、4大ヴェーダが完成し、バラモン教が宗教として完成しましたが、ガンジス川流域で抗争が続く中でバラモンの力が弱まると、クシャトリヤ(王族・武人)やヴァイシャ(庶民)が勢力を伸ばし、ウパニシャッド哲学がおこります。ウパニシャッド哲学は、バラモン教を否定する自由な思想として発展し、ブラフマン(梵)とアートマン(我)をひとつにする梵我一如と輪廻転生からの解脱、つまり悟りを目的としていました。 そして、「六師外道」と呼ばれる自由思想家たちが活躍し、マハーヴィーラによってジャイナ教が、マッカリ・ゴーサーラによってアージーヴィカ教が、ブッダ(シャカ、ゴータマ・シッダールタ)によって仏教がつくられていきました。
*六師外道はこの解説が面白いです!
また、現在のヨーガに続く『ヨーガ・スートラ』の成立はA.D.3C.〜4C.と言われていますが、ヨーガの最古の説明は、B.C.350〜-300年頃に成立したと推定される『カタ・ウパニシャッド』に見い出せると言われています。そして、その後A.D.4C.〜5C.に編纂された『ヨーガ・スートラ』は仏教思想の影響を多く受けているようです。
では、ピュロンがインドで会ったヨーガ行者はどんな人物だったのでしょうか?
古代インドの判断中止と諸行無常
これには諸説あるようです。吉嘉純夫さんの研究によると、ウパニシャッド哲学や仏教思想につながる人達だったという人も、「裸の哲学者」だからジャイナ教だという人もいるようですが、史料から読み取れるのはバラモンと接触があったことだけだそうです。ただ、六師外道のサンジャヤ・ベーラッティプッタの懐疑論との共通性が強いことから、行者たちの会話からを聞いてヒントを得た可能性はあるとのことでした。
真実は「判断中止」して進むしかなさそうですが(笑)、B.C.5C.にインドで、B.C.4C.にギリシャで「判断中止」という不可知論が説かれ始めたのは間違いありません。
そして、インドで「判断中止」を主張したサンジャヤは、こんな問答をしていたそうです。
もしもあなたが「あの世はあるか」と問うた場合、わたしが「あの世はある」と考えたならば、「あの世はある」とあなたに確答するでしょう。しかしながら、わたしはそうしない。わたしはその通りだとも考えないし、それとは異なるとも考えないし、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。(『沙門果経』ディーガ・ニカーヤ)
続いて、「あの世はないのか」「あの世はあり、かつないのか」「あの世はあるのでもなく、かつないのでもないのか」の問いに同様に答え、善悪二業の報いは存在するか、如来(人格完成者)死後に存在するのかについても、同じように判断中止の態度を示し、明確な答えを避けた。
と、なんともつかみどころのない話ですが、それが響いてか?サンジャヤの弟子たちは皆ブッダに帰依してしまったそうです。あまりのショックにサンジャヤは血を吐いたとか、、、かわいそうに。
六師外道と仏教の関係は切磋琢磨で、討論しながらしのぎを削っていたそうですが、仏教の思想の中にも、判断中止的な、結論を固定しない思想を見ることができます。
ブッダは「釈迦の無記」といって、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「修行完成者(如来)の死後のあり方」といった仏道修行に直接関わらない・役に立たない問いに対しては回答・言及を避けたといいます。
そして彼は、ありのままに見ることを重要視しました。ゼロを発見したインドにおいては、有と無は大きなテーマでした。しかし、ブッダはこれに対して異論を唱えます。物事はそれぞれがそれぞれの目で見ているので、立場によって違って見えるというのは当然のこと。故に、知恵を持って正しく見ることが大事であり、有と無という極端なものではなく、中道を選ぶことを説きました。
カッチャーヤナよ、「あらゆるものが有る」というならば、これは一つの極端の説である。「あらゆるものが無い」というならば、これも第二の極端の説である。人格を完成した人は、この両極端説に近づかないで、中(道)によって法をとくのである。(マッジマ・ニカーヤ)
そして、わかっている真理として、4つの真理を説きました。
「これは苦しみである」「これは苦しみの起こる原因である」「これは苦しみの消滅である」「これは苦しみの消滅に導く道である」ということを、わたくしは断定して説いたのである。これは目的にかない、心の平安、すぐれた英知、正しい覚り、安らぎのためになるものである。(マッジマ・ニカーヤ)
この4つの真理は、瞑想によって体験し、知ることができるというのが、私の体験からの知です。
4つの真理を正しく見ることは、諸行無常、つまり、すべての物質や現象は常に変化していることを正しく見ることと言うこともできます。移り変わるものを止めようとしても、名前をつけても、その時にはすでに存在していないのですから、感覚や思いや考えをそこに留め続けることもできない。だから、そんな消えゆくものを論争しても、止めるためにどんなに力を注いでも徒労に終わり、全く無駄になる。世の苦しみはそれを知らないことから起こるって言っているんですね。
そして、「我でない(非我)」が主張されました。これは、物事は互いの条件付けによって成立し存在し(縁起)、無常であり変化し続けるため、「我」「我がもの」などと考えて固執してはいけない。「我」への執着を打破して真実のアートマン、真実の自己を実現すべきという思想です。
諸行無常を知り、物事を正しく見ることができれば苦しみは消えていく。そのための修業はするが、苦行は必要ないというのがブッダの確立した悟りへの道でした。
ブッダの教えを端的に表現した映像がありましたので紹介しておきます。さすがダライ・ラマ法王。仏教の科学的な部分を短い言葉で表現されています。
このように、判断中止を行いながらもその先を解いたことが、仏教が独自の世界観を持って広がっていく原動力になったのかもしれませんね。
リンク埋め込み以外の参考
インダス文明と諸王朝(カースト制、マウリヤ朝、クシャーナ朝、仏教成立など) 受験対策問題 14 / 世界史 by レキシントン |マナペディア|
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全ての判断はおもしろい物の見方1=古代ギリシャのエポケー=
私達は常に判断しながら生きている。
そして判断している主体を自分だと思っている。
でも、それは本当に本当だろうか?
アクセスコンシャスネスには「ジャッジメント」と「おもしろいポイントオブビュー」という言葉があって、「好き嫌いや善悪の判断は、ひとつの面白い物の見方にすぎない」と捉えています。
私は結構長い間、頭の8割を自己探求と社会貢献が占める生活をしていたので、いろんな考え方を比較するのが好き。アクセスも探求のひとつの道具だと思っています。今回は「判断」「判断中止」と「おもしろい物の見方」について、哲学と比較しながら自分が掘り下げたい部分をドドドと掘り下げてみようと思います。
まず最初に、「判断中止」って言葉、ご存知ですか? 西洋でも東洋でもこの概念があるんですよね。
古代ギリシャで生まれたエポケーの思想
西洋での「判断中止」は、古代ギリシャの哲学者ピュロン(B.C.360年頃~B.C.270年頃)が生み出したと言われていています。ピュロンが書き残したものはないそうなんですが、彼の考えを受け継いだ弟子ティモン(B.C.325〜B.C.235頃)は師の思想をこう伝えています。
われわれは事物の本質を知ることができない。
なぜなら、人間の知覚が捉えられるものは事物の現れにすぎず、事物のありのままの姿ではないからである。
また、事物の本質は理性によって捉えることができるという人もいるが、理性による認識は習慣に縛られており、あまり信じることはできない。
つまり、人間は、事物のありのままの姿を知ることはできない。
それゆえ、われわれが事物に対してとるべき態度は、判断中止=「エポケー」しかない。
そして、こうした「エポケー」の態度をとる者が得られるのは、何が真で何が偽であるかとか、何が善で何が悪であるかと思い悩むことがない「乱されない心」=「アタラクシア」なのである。
我々は、事物が我々にどのように現れてくるかを知っているだけなので、事物の本性がいかなるものかについては知ることがない。あるものが真理であるかどうかを知ることはできない。したがって、判断をすべてやめれば心の平安が保たれると説いているんですね。エポケー( epokhē:ギリシャ語)はその後も哲学用語として使用されています。
このようなピュロンの思想は「懐疑論」と名付けられ、事物の本性を知ることができないことを表していることから「不可知論」とも呼ばれています。
この思想はアイネシデモス(B.C.1C.頃)に引き継がれました。彼は『ピュロン語録』の中で「10箇条のトロポイ」を示し、我々の感覚や知識は次の諸条件によって異なり、決して唯一絶対ではないと記しました。
- われわれ動物の種類が異なるに従って。
- 人間の個人個人が異なるに従って
- 同一の個人においても、感覚器官が異なるに従って
- これらが同一でも、その時々の身心状態によって。
- 知覚する者の視角や距離によって。
- 知覚される物を包んでいる物質や状況によって。
- 知覚される物の数や量によって。
- その物の他との関係によって。
- 知覚者の習慣によって。
- 対象の風俗習慣法律によって。 出典:アイネシデモス - Wikipedia
これは具体的でイメージしやすいですね。感じ方は確かに人それぞれですし、同じ人でもその時々で捉え方は違いますもんね。
こういった懐疑論者の思想はその後も引き継がれ、プラトンが創設したアカデメイア(B.C.387〜A.D.529)ではB.C.3C.〜2C.に大きな勢力を持ち、中世のキリスト教哲学者アウグスティヌス(354〜430)、デカルト(1596~1650)の方法的懐疑、フッサール(1859〜1938)の現象学的エポケーにも影響を与えています。
近代哲学で「現象学」を確立したフッサールの主張はエポケー=判断中止に基づいています。フッサールの主張を要約するとこんな感じです。
私たちは、自然(世界)とはこのようなものからできていると、ある種の思いこみによって認識している。しかし、これを改めて、世界という現象そのものを認識する必要がある。そのためには判断停止することが重要で、判断停止することで人は、世界という現象そのものを考察することができる。
参考:フッサールの哲学(高校倫理で最もわかりにくい思想) - Irohabook
こう振り返ると、いつの時代も、「私が認識している世界は実在するのかはわからないし、それを限定することはできない」という思想が息づいてきたことがよくわかりますね。
このように西洋の哲学史を振り返ると、古代ギリシャから近代に至るまでにいろんな人たちが「判断中止」について論じ、学問として体系づけてきた訳ですが、実はこの思想のルーツは古代インドにあったようなんですよ。
ー続くー
その他の参考リンク
フッサール『現象学の理念』を解読する | Philosophy Guides
ピュロンとは (ピュロンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
エポケー(判断中止)|フッサール,現象額的エポケー - Hitopedia
簡単に読めるものですが、つなぎ合わせながら読んでいくとしっかり意味が出てくる。
あるがままの自分でいる幸せ
あるがままの自分でいる幸せ
昨日、一昨日と2日連続でギフレシ(ギフト&レシーブというやりあいっこの会)の後、今日はセッションでした。
アクセスバーズは頭の32箇所のポイントを左右対称に触って電気の棒(bar)をつくり、思考、感覚、感情などに働きかけていきます。マネー、コントロール、クリエイティビティ、アウェアネス、ヒーリングなど、ポイントにはそれぞれ名前がついていて、名前と関連したところに作用していきます。
あまりの心地よさにぐっすりと眠りに落ちることもよくあります。それはそれでOK。その理由は目覚めた時にわかります。短時間だと思えないくらいの深いリラックスがあったり、スッキリとした感覚を感じている人が多いです。そしてふと、今まで悩んでいたことがどうでもよくなったり、躊躇がなくなったりと、思考や行動が変化している自分に気づいたりするんですね。
それから言葉でのクリアリングもあります。アクセスの問いかけやクリアリングワードはエナジーを変化させるスイッチのようなもの。私達は常に感じ、考え、様々な判断をしていますが、オートマチックに働き続ける判断をやめ、エナジーを変えると思考が変わり、行動が変わります。
眠らないでおしゃべりしたい人には、お話を聞きながら、クリアリングや問いかけをしていきます。
簡単なものを紹介しましょう。例えば、今ある現状を変えたい人には、
これは何?これについて何ができる?変えられる?もしそうならどう変えられる?
痛みや重たさを感じる人には
これは誰のもの?
といった感じです。
探究の到達点である「悟り」とは、“あるがまま”の自分に安らいでいる境地です。自我(理想の自己像)を持たず、自己を肯定も否定もしていないため、“ただ存在しているだけで幸福”なのです。
見えない世界に近づく鍵は、気づきと会話と受け取ること3
あなたは知っている
ーシャノン・オハラの「トーク・トゥ・ザ・エンティティズ」クラス体験記の第3弾。前回のお話はこちらでチェックー
お部屋でエンティティクリアリングしたら、ドラゴンとユニコーンが現れた! これを翌日シャノンに報告したら、、、
ひと通り起こったことを話した後に、私はふたつの質問をしました。
「私はこのままポータルを閉じておいた方がよい?」
彼女の答えは
「ポータルを閉じてもエンティティはまた来るかもしれないわよ」
それを聞いて、とりあえずこの対処でOKで、変化したらまたクリアリングというか、お話ししたらいいんだと納得。
そして、
「ユニコーンはここにいたいと言っているけど、帰ってもらった方がいい? それともチームメイト(助けてくれる存在)になれる?」
と聞くと、
「あなたはどうしたいの?」
とシャノン。
「お金を持ってきて欲しい!」
と答えると、
「wwwwwwwwww爆笑」
というわけで、答えは自分が決めたらいいってことに(笑)。
アクセスではエンティティにお金を持ってきてって頼んだりするんですよね。これ、今私がもっとも問いかけたい課題だったんですよー(笑)。
もうひとつ別の質問があったんですが、そっちは自分の中で答えがきたらまたアップしようかな。ともかく、それらふたつの質問をとおして彼女が私に伝えたのは
「あなたは知っている」
でした。
知っているってどういうこと?
不安なこと、わからないことがあると、つい答えが欲しくなりますよね。そして、なんで? どうして? と、理由を知りたくなる。特に教えてくれる立場にある人達には、その答えを導き出してくれることを期待します。お金を払っているなら特にね。
でも、アクセスコンシャスネスでは「答え」は与えられないんです。
答えはひとつの物の見方で、固定化された概念から生み出されています。そこには善い悪い、正しい間違っているなどの判断が入っています。
例えば私の例でいうと、私は心の奥底ではこうだったら楽なのにと思っていました。「あなたが見たものは幻だよ」「そんなことあるわけないでしょ」と、誰かに自分の体験を否定して欲しかったんです。「そんなバカなこと言ってないで現実に目を向けなさい」って今までの世界に引き戻して欲しかったのかもしれません。あるいは逆に、「その通りだよ!素晴らしいね!」「あなたが見たものにはこんな意味があるから、これからはこうした方がいいよ」なんてアドバイスがあれば、私は安心して自分が見たものを信じたかもしれません。
でも、それって、本当に本当?
前者は自分の体験や感覚の否定、後者は体験の意味づけが発生しています。それは、真実でしょうか?
違いますよね。その感覚、エナジーは、ただそこにあり、私はただそれに触れただけ。それ以上でも以下でもありません。だったらそれを、そのままの真実として受け取っていけばいいんです。
問いかけて答えが来るのを待つ。
これがアクセスコンシャスネスの基本的なスタンスです。自分の体験の意味が知りたければ答えを考える、見つけるのをやめて、「これは何?」「どう変えられる?」「真実よ」「ユニバース、今すぐ見せて」などなど、問いかけ続ける。そして、自分がしっくりするものがやってくるのを待つんです。
そして、忘れてはいけないのが、答えを選ぶのは自分自身だということ。
選択は無限にあります。その無限の中から選ぶのは私。他の誰かではないんです。
私が自分への制限をかけず、自己否定や思い込みが少なければ少ないほど、選択は広がっていきます。どんな選択をするかは、エンティティや誰かのアドバイスではなく、私自身なんですよね。
やってきたのはやさしい癒し
そして講座は終わり、次の日、できるだけバリア(自分を守ろうとする意識。自我とも言えるんじゃないかと思います)を下げて、ユニコーンのエナジーを感じてみると、温かくてやさしい感覚が広がってきました。もうね、すっごい癒される〜〜〜🎶
数日前に乗せてもらった馬のやさしさも素敵だったけど、それともまた違った語りかけるような感覚。スリスリしながらおしゃべりする感覚で、気づけば心と体がリラックしていました。
そして、日常生活の中でも、空をもっと広く感じたり、雲や空気や生き物を前よりも近く感じるようにもなっていました。
だから、私は、それでいいのだと。
この体験がどんな意味があったのかとか、一般的に言ってドラゴンやユニコーンにどんな意味があるかなんてのは、あるものの見方で解釈でしかないし、ひとりひとりの体験は違うので、誰かの解説を聞いても自分にとっての本当はわからないと思います。それよりも、自分が体験したことの方がリアルでしょ? 自分が何を体験して何を受け取ったかにフォーカスしていけば、「本当に〜?」って柔らかな気持ちで自分自身に問いかけていけば、そのうち答えはやってくる。必要なものは必ずやってくる。だから、
癒されて幸せ〜💖な今を満喫しながら、楽しんでいこう。😊
さてーーー、お部屋の片付けしなきゃ。もうエンティティのせいにはできないもんね!(笑)
ー終わりー
エンティティについて詳しく知りたい人はシャノンのTalk To The Entities HPで
今までのお話はこちら
セッションはこちら
見えない世界に近づく鍵は、気づきと会話と受け取ること2
かわいい来訪者たち
ーシャノン・オハラの「トーク・トゥ・ザ・エンティティズ」クラス体験記の第2弾。前回のお話はこちらでチェックー
同じ部屋なのに広く感じたり狭く感じたりしたことってないですか? 随分前から自分の家でそんな気がしてた私。気のせいのふりをしてきたけど、本当に気のせい?という疑問を解消すべく、エンティティとお話しすることに。そうしたら、その存在は静かに消えていきました。そしてかわりに、思わぬものが登場してきたんです。
なんと、広くなった部屋の奥には、小さなドラゴンがいるじゃないですか!
????????????
ドラゴン……………?????????
それは物質として存在しているのが見えるのではなくて、エネルギーを感じるのと、頭の中にイメージが画像化されて現れるという感じ。しかし、確かにそこにいるんです。
なんのこっちゃ!
と頭の中で突っ込みながらも、凝り固まった概念で物事を見ないのがアクセスのワーク。講座で教えられたように対話してみると、このドラゴン、まだ幼くて泣いているみたい。凄い寂しそう。
「そうなんだー。ちっちゃいもんねー。お母さんのとこに帰りたいのかなー?」なんて思いながら、これまた教えられたように、元いたところに帰りなさいと伝えると、しばらくしたらいなくなっていました。
ほっっっ。
また少し広くなった空間にホッとしたのもつかの間。今度は、
ユニコーン登場!
…………… ?????????
こちらも物質として存在しているのが見えるのではなくて、エネルギーを感じるのと、頭の中にイメージが画像化されて現れるという現象。
なんだこのメルヘンチックな展開は?
と思いつつ、ここで自分を否定したり起きていることを拒否していては、講座に参加した意味がない。
ここは丸ごと全肯定でいくしかない。
ドラゴンと同じようにまだ幼さが残った感じ。元いた場所に戻るように伝えると、この子はまだここにいたいって言うんですよ。
マ、マジか。。。。
ユニコーンは戻る様子もないし、私も怖い感じはしないので、もう少し感覚をそこに向け続けていると、
なじんできた。
そっか。じゃあ。
いいよ。ここにいても。でも、他のものは入ってこれないようにポータル(入り口)閉めてね。 よしよし。
って感じで、頭なでなでするイメージに(笑)。ユニコーンは嬉しそうにその場に残り、軽くて明るい空気が流れるようになっていました。
ああよかったって思いつつ、いまひとつこの展開を信じ切れていない私。だって変でしょ? でも、変って思うのも今まで持っている固定概念からの判断。アクセスではそれ、やらない約束なんだよね。特に、エンティティとの会話でそれを言っていたら話が進まない。だから、ここはやっぱり、
全面的に受け入れるしかないでしょう😝
と、自分が感じたものが正しいか間違っているかの判断をしないで、全面的に受け入れることを選ぶことに。そして、午後から始まる2日目の講座開始を待つのでした。
ー続くー
#トーク・トゥ・ザ・エンティティズ
見えない世界に近づく鍵は、気づきと会話と受け取ること1
先生だって自由がいいのさ
はあぁ。体軽くなった! めっちゃ癒されてる〜〜 💕
昨日、一昨日は、シャノン・オハラの「トーク・トゥ・ザ・エンティティズ」のイントロクラス、ビギニングクラスでした。
「エンティティ」というのは、目に見えない存在のことで、お化けや幽霊、妖精や天使、生きている人間なども幅広く含んでいます。「トーク・トゥ・ザ・エンティティズ」は、一般的には怖がられている目に見えない存在たちと会話して交流する方法を学んでいくクラス。あ、でも、怖くないですよ。お金持って来てとか頼んじゃうし(笑)。
シャノンはアクセス創設者のギャリー・ダグラスの義理の娘で、トーク・トゥ・ザ・エンティティズ」の創設者。子どもの頃からいろんなものが見えたり聞こえたりしていた彼女が、見えないものへの恐怖や否定をやめ、アクセスの力を借りながら探求していって生まれたのがこのクラスなんですよ。
この春からの不調がエンティティとの対話で改善した私(詳しくはこちら→病気と気づきとアクセスと - future trippers)。小さい頃から見えないものからの影響を感じていたこともあって、これを機会にエンティティについてもっといろいろ知りたくなっていました。それで、創設者のシャノンのクラスを検索したら、ドラキュラの国ルーマニアで8月初頭に開催されることが判明!しちゃったわけですよ。
それでね、どうしても受けたくなって相談したら、ビギニングクラス(2日間。ちなみにイントロクラスは2時間)希望者が5人以上集まれば通訳付きでオンライン開催してもらえることになりました。そして、見事達成!!! 友達も何人か参加することになって小躍りしながら受けたのですが、予想を超えたクラスの展開にぶっ飛びながら聞くことに。
講座は質問に答えながら進んでいく形式で、テキストはあるんですが講師自らが「このテキスト随分読んでないのよ」なーんて言っちゃう状態。さらには「私、ビギニングクラス苦手なのよねー」って。
こんな風に「あ、言っちゃうんだ、それ」ってのが満載なんです🤣。
つまり、初歩的な解説は苦手だからできないってことなんでしょう。イントロクラスでもビギニングクラスでもテキストは参考程度で、進行はほぼ観客とのジャムセッション。最後の日は、時間前でも参加者からの質問がなくなったら終わり。必要なことが終わったらそれでよいというすっきり感で、会場からも不満はナシ。これは、日本人にはなかなかない感覚ねー。
おいおい、なんて自由なんだよ!🤣
そこまで自由でいいん?
と、思わず日本人感覚で突っ込みたくなったりしますよねー。
でも、それって本当???
そうそう、そこそこ、それが大事なところ! それって私の固定概念から見た、よい悪いのジャッジメントに過ぎない!
いいんです! 自分が本当にそう思っているのなら。
嫌なら嫌だって言うんです。言えるんです。
それが自分に気づいて批判をやめること✨✨✨
参加している人達からの質問も実践的な内容が多く、初歩的な解説は一切なし! エンティティと会話するのは当たり前で「いいお付き合いするにはどうしたらいい?」「クライアントからの相談にはどうしたらいい?」ってそんな感じの実践者トークが続いていました。
だからこそ、みんなとっとと聞きたいこと聞いて、満足したんだろうなあ。ほんと、内容濃ゆかった。
「エンティティっているの?」「どうしたら話せるの?」なーんて初歩的な概念が存在しない世界に、「大丈夫か、私?」と思いながらも、ちゃっかりビギニングクラスで2日とも質問をさせてもらいました。
この家のエンティティに出ていってもらうには?
私はこの家に何かいる感じをずっと感じていたんですよね。なんか、今日は部屋広い、とか、なんかぎゅっとしているとか。そんなに嫌な感じはしていなかったんですが、なんかここ最近、密度濃ゆいっていうか、重たい感じがしていて、あんまりその部屋にいなくて別の部屋を使うようになっていました。
そしたらね、ますます大きな何かがいるような感じがしていたんですよ。攻撃されるわけではないし、怖いわけではないんだけど、なんかデカイ。そして重い。いて欲しいか、いて欲しくないかなら、やっぱりいて欲しくないやつ〜〜(笑)。
それをどうしたらいい?ってシャノンに質問したら、
「クリアリングはやったの? できるまでやるのよ」
「みんな、今から日本へ行ってクリアリングするわよー。日本だからアパートメントの小さい部屋よー。どんなエンティティかしらー(笑)」
な〜んて言って、参加者と一緒にクリアリングのエナジーを送ってくれた😄
うちは田舎の一軒家でそこそこ部屋数もあるけど、まあそれはいいとして(笑)、彼女が行くわよって言ったその瞬間から部屋の空気に少し変化が生まれました。もちろん私はその部屋にはいないので遠くから感じるだけだったけど。それを通訳を介して彼女に伝えると
「明日どうなったか報告してね!」
と言って他の質問に移り、クラスの最後には、みんなに5−10分クリアリングするように宿題を出しました。
終了後、私は宿題をするべく、例のエンティティさん満員御礼の部屋に行ってテキストにあるクリアリングで当てはまりそうなのを言ってクリアリング。そうしたら、さらに空気が軽くなった感じが。その夜はひとまずそれで終わりにして、元の部屋に戻ってテキストを読んで眠り、朝、もう一度クリアリングをしに行きました。
テキストにはいろんな情報やツールが紹介されているのですが、基本的なクリアリングワードの他に、ポータル(異世界または遠地に繋がる出入り口・通り道 by Wikipedia)を閉じるというのを見つけました。
自分の感覚に聞いてみると、なんだかよさそうな感じ。思い切ってやってみたら、なんか、どんどん軽くなっていく!
そしてしばらくすると、部屋の空気は完全に変わり、思ってもいなかったものが登場したんです。
続く